僕が僕であるために

社会に関する硬いことからくだらないことまで気の赴くままに書き綴ります。

読書感想文と"当たり前"

 

 

はじめに

 読書感想文が物議を醸している。Twitterまだやってるの?今はインスタ、TikTokでしょみたいな健全な生き方をしていて今回の論争を知らない方々は下記のまとめを読んでもらいたい。

https://togetter.com/li/1551124

 

 ことの発端のツイートを僕がTLで最初に見た時はせいぜい数百RTといいね程度しかついていなかったので、Twitter日本トレンド1位になるほど盛り上がるとは思っていたなかったから驚いた。

 そこで、読書感想文について色々思い出したことがあったので書いてみたい。この論争とは少しずれるが、一意見、一経験として受け止めていただきたい。

 

 まず今の僕についてだ、読書は好きか?と聞かれたら間違いなくYESと答えているし、自己紹介の際、趣味として読書と答えることもある。先日はとうとうAmazonKindleリーダーを購入して読書欲が上がっている。(気力と体力と意欲の問題で働き始めてからは以前よりも映像コンテンツの消費比率が上がりほとんど読めていないが…)

ちなみに購入したのはこれ

 

 

 このようなことを書くと、小さい頃からさぞかし読書家だったと思う人もいるだろうが、実際は全くの逆で読書大嫌い人間であった。

 どのくらい読書嫌いであったかというと、小学校の朝読書の時間は、本棚にある本を適当に選んで本を読んでいるフリをして毎朝やり過ごし、読書感想文はあらすじとあとがきをほぼパクって書く、図書室で夏休み用に本を借りないといけない時も友人達の流行に合わせてズッコケ3人組や三国志怪人二十面相を借りるも流行に合わせて選んだだけなので一切読まずに返却(デルトラクエストだけは読んだかなぁ)といった少年時代であった。

 

 ここまでの話しできっと僕は読書感想文不要論者だと思う方もいるだろう。なぜなら読書が嫌いで読書感想文も手抜きだった僕が今では読書が好きな人間になっているのだから読書感想文は少年時代の僕がそうであったように読書嫌いを助長するのかもしれないと。

 しかし、そんな単純な話しではない。だからここそこの記事を書くことにした。

 

読書感想文と僕

 はじめに、立場を明確にするために書いておくと、僕は現状の多くの小中学校で行われているような形、指導(教員の仕事の多さ、能力などからそもそも指導がなかったりもする)での読書感想文は不要だと思う。

 一方で、個人的に読書感想文にはいい思い出が一つあるのでその思い出について書きたい。

 前述した、読書感想文嫌いエピソードは主に小学生時代の話である。中学生になると小学生の頃よりは多少本を読むようになっていた(それでも銀魂の小説版や好きなサッカーチームの監督の自伝などだったが)。語彙力や読解力の低さ、頭の悪さから小学生時代は本を読んでも話が理解できず面白くなかったのだと思う。それらの力、頭が中学生になり多少強化され活字から物語を想像して理解できるようになったのだと思う。そういう意味では、僕のような頭の弱い人は僕のように漫画やアニメで既に絵を知っている小説をはじめに読むと活字から情景を思い浮かべるのが容易になるのでいいかもしれない。

 そして、中学時代のある日、夏休みの宿題で読書感想文が出された。多少本を読めるようになっていた僕は、既に夏休み前に読んだ家にある1冊の本を感想文にした。その本のタイトルは『スタバではグランデを買え』である。

 

 

 この本は当時ベストセラーであったためご存知の人も多いだろうが、簡単にどんな本であるか説明する。

 「なぜコンビニのお茶とスーパーのお茶は同じお茶でも価格が違うのか?」

「なぜ映画のDVDは期間が経つにつれ価格が下がっていくのか?」

「なぜ100円ショップの商品は全て100円にできるのか?」

といった日々の生活で誰もが一度は考えた事があるだろう価格の仕組みについて一般向けに解説してくれている本である。タイトルのスタバではグランデを頼むのが得であることも書かれている。ちなみに僕はこの本を読んでから約10年後にはじめてスタバに行きグランデではなくトールを頼んだ。需要と供給だとか経済学にありがちな難しいグラフや数式は一切出でこない。

 元々新聞やニュース番組は小学生時代からよく読み見ていて社会の動きに興味があり、物の価格などあらゆる世の中のことに疑問を持っていた(今も持っている)僕にとってこの本は非常に面白かった。おそらく知的な面白さを本で感じた初めての瞬間であった。

 この本を読んだことで価格といったものに興味を持ち、経済学や経営学といった学問の存在をぼんやりだが認識した。それが後の経済学部に入学するといった学部選びに繋がったのだ。

 

 そして、この本で読書感想文を書くと今までの読書感想文は嘘であったかのように筆が進むのである。やはり、自分が本当に好きだと感じるなり何か思うことがあるものについての読書感想文なら書くことができるのだ。

 読書感想文というと、小説(物語)か偉人の伝記といったものが"当たり前"だと思われているだろう。僕自身この本で読書感想文を書くまではその"当たり前"に縛られていた結果、読書感想文はもちろん読書まで嫌いになっていた。

 しかし、その"当たり前"から脱却し本当に好きな本の読書感想文を書いたことにより読書感想文が苦でなくなり、国語の先生から「先生もその本を読みたくなるいい感想文だった」と褒めてもらえた。イレギュラーな本のチョイスでも褒めてくれた当時の国語の先生には今も感謝している。

 もし、私が読書感想文の"当たり前"に縛られ続け好きではない小説や伝記(今は両方ともそれなりに好き)について読書感想文を書いていたら、経済学部には入学していなかったかもしれないし、褒められることもなく文章を書くのが嫌いなままだったかもしれない。もちろん今この記事も書いていなかっただろうし、読書も嫌いなまま、今の僕のような書評を自ら書く人間にもならなかっただろう。

 以上のことから、読書感想文に限らず何かしらの宿題や課題に挑む人は"当たり前"に縛られず取り組んでみるのはいいんじゃないかと僕は思う。そうすることで僕のように嫌いなことが好きになることがあるかもしれない。そして、先生などそれら宿題や課題を確認する立場の人にも当時の僕の国語の先生がそうであったように"当たり前"に縛られず評価して欲しいと思う。あなたのその一言が、言われた側の人生に大きく影響する可能性があるのだ。

 Twitterで論争が起きたところで、現実世界がすぐに変わるわけではない。おそらく今年の夏休みも多くの学校で夏休みの宿題の定番として読書感想文が出されるであろう。であれば、僕のこのエピソードが、読書感想文の励みやモチベーションの助けに少しでもなれば幸いだ。

 また、読書感想文論争をしている方々への判断材料の一つになればとも思う。

 

 

 意見や感想、何か共有したい情報などなんでもコメント待ってます。

 

2020/07/03 追記

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 部屋を整理していたら、中学生時代のプリントが出てきた。国語の先生が僕達の学年はどんな本の読書感想文を書いたのかを共有するプリントだ。

 やはり、この資料だけで判断すると僕の"当たり前"は正しかった。フィクション、ノンフィクションの違いはあれど小説が一番多い。(なかには『こちら葛飾区亀有公園前派出所』や『スラムダンク』で感想文を書いている強者がいるが 彼、彼女*1 も"当たり前"から脱却した1人なのかもしれない)

 

 

*1:日本語の"彼"にはもともと性別による区別はなく、英語のHeとSheのように性別に区別をつける西洋の言語が入ってきた際の訳の都合で"彼女"という言葉を作ったという話を聞いたことがあるが、こういった時"彼"一語で両方の性を表せたらなと感じた