僕が僕であるために

社会に関する硬いことからくだらないことまで気の赴くままに書き綴ります。

お前に地球を救えるか!~「もののけ姫」を劇場で見て~②

はじめに

前回の記事はこちら 

zitrone180830.hatenablog.com

 前回の記事では、もののけ姫の感想にはほとんど踏み込めず、劇場で映画館を見るということやVOD*1時代の映画館についてなどの話で終わってしまったため、今回を完結編として"もののけ姫"の感想を書こうと思う。

20年後の現代から『もののけ姫』を見て

 前回の記事でも触れたように、もののけ姫は23年前に上映された映画である。それが2020年令和2年に劇場で再上映され、数多の新作映画を凌いでTOHOシネマズ映画ランキング2位(※2020年7月19日現在https://www.tohotheater.jp/)を記録しているという事実だけでも作品の素晴らしさは伝わると思う。

 映画そのものの美しさやストーリーについては僕より感性が豊かで、映画に精通しており、文章力をもった多くの人が様々な媒体で感想を書いていると思うので、僕は僕なりのこの作品から感じたことや考えを中心に書いていこうと思う。

 まず、この映画の大きなテーマは環境(enviroment)開発(development)だと感じた。このワードを聞いて、この分野に明るい人は環境と開発に関するリオ宣言(Rio Declaration on Environment and Development)」*2を思い出したのではないだろうか? 詳しくない人も下記の動画の少女のスピーチを学校の授業などで見たことがあるのではないだろうか。


子どもたちの声に耳を傾けましょう -「国連環境開発会議」(地球サミット)におけるセヴァーン・スズキさん(カナダ)によるスピーチ(1992年6月、ブラジル、リオデジャネイロ)

この会議が1992年であり、もののけ姫の上映が1997年なので環境開発という問題が世界的に議論されはじめた時期と重なっている。

 一方、もののけ姫という作品の舞台は中世日本であり、同じくスタジオジブリの作品である『平成狸合戦ぽんぽこ*3のように現代社会にダイレクトに訴える作品ではない。だからこそ、環境開発というのは我々人類が文明を築いた瞬間からの永遠のテーマであることが伝わる。

 この記事のタイトルにしたように、見終わった後は、まるでモロに「お前に地球を救えるか!」と言われているような気分になる映画であった。

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「お前に地球を救えるか!」

 おおまかなあらすじはこちら

renote.jp

 僕の推測だが、この映画を見た人の多くは、"自然の豊かさ"だとか"偉大さ""神々しさ"などを再認識して、それらを大切だと思った人が多いのではないだろうか? 主人公のアシタカは自然と人間の共存を目指そうとしているように見えるし、ヒロイン?であるサンは完全に自然側(神々側)の人間である。

 一度はエボシ御前とジコ坊という人間側(文明側)によりシシ神(山の神)は討たれてしまうが、神殺しの代償は大きく山が枯れていき、最後はアシタカとサンによりシシ神の首は山に返され、山の自然がある程度戻るといった話になっていることからも、僕がそうであったように、アシタカやサンを応援する気持ちで見ていた人が多いと思う。もし、エボシ御前やジコ坊を応援していて「見つけ次第殺すぞ!!」とシシ神が討たれることを期待している人がいたら感想が気になるのでコメントが欲しい。

 多くの人が、アシタカ・サンの自然派*4だと仮定して話を進める。そこで、僕が強く感じたのは映画鑑賞者である我々の"矛盾""ダブルスタンダード"である。

 2020年の夏、日本でも九州を中心に大雨・洪水といった災害に見舞われている。そのニュースを刹那的に消費し悲しみ、同情はするも、地球温暖化や気候変動を引き起こしている僕たちの行動そのものには目を向けない矛盾と同じものを感じた。

 この映画を見た後に、環境や自然のことを考え何かしらの行動、アクションを起こした人は何人いるだろうか? それどころか、エコやSDGs*5と言ったり、行動する人を現実の見えていない夢想家だと嘲笑したりしてはいないだろうか?結局は上映が終わった瞬間、ジュースが入っていた使い捨て容器のプラスチックごみを何も思わずに捨ててしまう人が多いだろう。所詮、シシ神もサンも見たことなどないし、今見た作品の話はフィクションなんだと。

 しかし、環境開発という問題は現代社会においてもののけ姫の世界より深刻なことは事実であり、世界でも重要なトピックである。

  このツイートの動画に映っている1997年上映時にもののけ姫を見た多くの人たちが"自然の豊かさ"だとか"偉大さ""神々しさ"などを再認識し、大切だと思った結果が僕たちの生きている2020年なのだろうか?これほど熱狂したのに自然はその後の20年間で明らかに破壊されている。

 この映画で"自然の豊かさ"だとか"偉大さ""神々しさ"などを感じている際に、自分たちはアシタカやサン側だと勘違いしていないだろうか?この豊かな資本主義社会で生きその恩恵を享受している以上、僕たちはどれだけ綺麗な言葉を並べてもエボシ御前やジコ坊側なのである。待ち受けを美輪さん*6にしようともモロに「黙れ小僧!」と言われる側なのである。

 だからといって、エボシ御前やジコ坊が悪役かというとそうとは言い切れない。エボシ御前はタタラ場を作り金属を生産することで、女性たちやハンセン病患者の人々を豊かににしたし、より豊かさを求めた結果がシシ神殺しであった。ジコ坊にしても下記の記事のように彼なりの生き方がたまたまシシ神殺しにつながったというだけだ。(日本人のジコ坊の見方や書き方は日本バイアスがかかっているという面白い記事)

gendai.ismedia.jp

 

 明日からアシタカのような生活に戻ることはできないし、そういった考えはクメール・ルージュ期のカンボジア*7のような過激な思想につながる危険もはらむ。自然と人間の共存という問題に簡単で分かりやすい答えはない。だからこそ、古今東西,、環境開発というテーマに僕たちは苦闘しているのだろう。

 

もののけ姫』から現代の僕たちへ

 何度も自然派(サン・アシタカ)と人間派(エボシ御前・ジコ坊)といった二項対立のような書き方をしてきたが、この映画のポイントはアシタカを完全にサンの味方(自然派・神々派)に置かなかったことと、侍たちの存在だと思う。

 アシタカはエボシ御前達人間派に「そなた達の敵はシシ神ではない!」とのセリフを放っている。「自然を壊すな!」だとか「神々に手を出すな!」といったセリフではなく、侍という人間の敵がタタラ場のある村に攻め入っていいるのを見て、敵はシシ神といった自然ではなく人間であるとアシタカは伝えているのである。

 現代に置き換えても、人間同士の対立というのは小さい争いから、大きな戦争・紛争まで絶えない。そんな人間同士の争いに精を費やしている僕たち人間がシシ神を殺し、自然を制したところで"豊か"な暮らしを手に入れられるのだろうか?

 この作品は、環境開発というテーマに加え、自然や神々に手を出す前に、まずお前たち人間同士の問題をどうにかしろよといったメッセージも含んでいるように感じた。

 アシタカとサンがシシ神の首を山に返し、ある程度自然が回復するシーンで終わるそれなりにハッピーエンドな展開からは、人間の手でどうにか反省した態度、行動をとれば、自然は神は、それなりに微笑んでくれるというメッセージのようにも感じる。しかし、忘れてはいけないのはこれは1997年上映の映画であり、2020年も同じ悠長な受け止め方をすると神(自然)も元には戻ってくれないのかもしれない。

  結局、この映画をみて感想を書き、「自然は偉大だ!」たとか「環境が!」とか言って少し高尚な人種になれた気がしているうちは、もののけ姫の真のメッセージを受け取ったことにならないのだと自戒を込めて思う。

 僕たちは未来のためにも「共に、生きることはできる!」というアシタカの言葉を信じ、行動するしかない。

 

あとがき

 話の本筋とは、ずれるこの映画を見て感じたことを最後に書きたい。それは、教育の思わぬ効果だ。

 僕は、小学生時代国語の授業で『田中正造*8という作品を学び、校外学習では、栃木県にある足尾銅山の跡地に行ったこともある。そこで、一度ハゲてしまった山がもとに戻るにはいくら植林をしようとも、相当の年月がかかることを座学はもちろん実際に目にして学んだ。

 また、毎日のように帰りの会の時間に配られていたいろんなプリントの中にかつての日本のハンセン病患者の差別的待遇とハンセン病についてのプリントがあったことをこの映画を見て思い出した。

 どちらも、当時は将来役に立つとは思っていなかったし、そこまで深く考えてはいなかった。帰りの会に配られるプリントなんてほとんどの生徒が流し見でゴミ箱に捨ててしまうだろう。

 しかし、足尾銅山ハンセン病のことに小学生時代わずかではあるものの触れていたことは、この『もののけ姫』の見方に影響を与えた。この2つのことを全く知らずにこの作品を見ていたらエボシ御前の村にいる病人も、森が破壊されていく様も受け止め方が変わっていただろう。

 "有用さ""役に立つかどうか"がやたらと叫ばれる昨今だが、一見役に立たない教育学びも間違いなく人生や社会を豊かにするものだと改めて感じた。

 

 この記事についてでも、もののけ姫についてでも何か感想や意見、情報がある方はコメントお願いします。

 

 

Filmarksでも映画やドラマの感想書こうと思っています。

https://filmarks.com/users/gosto_de_cinema

*1:ビデオ・オン・デマンド (Video On Demand) の略称。NetflixAmazon primeなどの視聴者が観たい時に様々な映像コンテンツを視聴することができるサービスのこと。

*2:1992年ブラジルリオ・デ・ジャネイロで開催された環境と開発に関する国際連合会議(UNCED)において合意された27原則から成る宣言。UNCEDではこれを実践するための行動計画「アジェンダ21」の他、「森林原則声明」、2つの国際条約「気候変動枠組条約」「生物多様性条約」、併せて5つの文書が国際的に合意された。

*3:原作・監督・脚本は高畑勲1994年7月16日に公開された。開発が進む多摩ニュータウン多摩市)を舞台に、その一帯の化学ばけがくを駆使して人間に対し抵抗を試みる様子を描く作品。

*4:決して熱が出た赤ちゃんの頭にキャベツを乗っけるような方々の意味ではない。

*5:持続可能な開発目標(Sustainable Development Goalsの略)。2001年に策定されたミレニアム開発目標MDGs)の後継として,2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」にて記載された2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標。

*6:10年ほど前携帯の待ち受けを美輪明宏の画像にすると幸せになれるという話が流行った。ゴールデンボンバーの『また君に番号を聞けなかった』の歌詞にもでてくる。

*7:カンボジア原始共産制という極端な思想をもとに、知識人や文化人を虐殺し、文明を否定し国民全員が農業に戻るといった政策をとった時期があった。

*8:日本の政治家。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として有名

お前に地球を救えるか!~「もののけ姫」を劇場で見て~①

はじめに

 「黙れ小僧!」「お前にサンを救えるか!」言わずと知れた名シーンである。何の作品の名シーンかというと、スタジオジブリ宮崎駿監督による映画「もののけ姫」である。

  日本人なら誰もが一度は聞いたことがあるであろうスタジオジブリ4作品(うち3作品は宮崎駿監督)が劇場で再上映しているということで先日友人と映画館へ「もののけ姫」を観に行った。

 実をいうと今回もののけ姫を観に行くまで、僕は一度も劇場でジブリ作品を見たことがなかった。というのも、ジブリ作品は日本の宝と言っても過言ではない名作ばかりで、ほぼ間違いなく金曜ロードショーなどでテレビ放映されるので、ケチ(倹約家?)な僕はわざわざ映画館に観に行く必要性を感じなかったのだ。また、これらの作品が上映されていた当時はまだ幼く、親同伴で映画を見に行くような年齢であったが、僕の家族は映画好きもジブリ好きも僕以外いなかった(いない)という事情もある。そんな家庭で育ってなぜそこそこの映画好きになったかはいつか書きたいと思う。

news.merumo.ne.jp 

なぜ「もののけ姫」か?

 「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「ゲド戦記」の4作品のなかでなぜもののけ姫を選んだかというと、1.米良美一が歌うもののけ姫を映画館のサウンドで聴きたかったということ、2.実はもののけ姫を最初から最後まで見たことがなかったことの2点が主な理由である。

 1.の米良さんの歌については期待していた通り、とんねるずにバラエティ番組でふざけて歌わされている時とは比べ物にならないほど素晴らしい歌声であった。これを聴きに行くだけでも劇場に足を運んでもいいと思う人もいるかもしれない。

 2.についてだが、他の3作品は金曜ロードショーなどで何度か観たことがあり、ストーリーも頭に入っていた*1もののけ姫だけは一部しか観たことがなかった。今回観るまでは、アシタカではなくサンが主人公だと思っていたくらいだ。

 先に、感想を少し書いてしまうと、ジブリ好きとはいってもアシタカとサンのどちらが主人公か知らないレベルの僕がわざわざブログの記事にしようと思うほど素晴らしい映画であった。だからこそ、もっと早くにしっかり観ておけばよかったという気持ちと、初めてがテレビではなく劇場でよかったという二つの気持ちが入り混じっている。

映画館の価値

 まず、もののけ姫という作品の前に、映画館について今回改めて抱いた感想があるのでそのことについて書きたい。

 コロナ禍ということもあり、僕自身久々の映画館であったため、小中学生時代の映画を見に行くというイベントが生活において金銭的にも、刺激的にも相対的に大きな非日常的なものであった時代の気持ちを思い出すことができた。大人になってしまった今は当時と比べて、電車に乗り映画館に行くことも、チケットを買うことも、その価格も大したことではなく非日常感が小中学生時代より弱まっていたが、コロナ禍という映画館に行きたくても行けないという期間があったことにより、昔のわくわく感を感じることができた。

 また、もののけ姫という名作とわかっているが、既に遠い昔(1997年上映)に上映されいて現在は劇場で見たくても見ることができないと思われていた作品が、まさかの劇場で見れるという僥倖*2がよりわくわく感を増大させたのかもしれない。

 結論を言うと、映画館の価値は悪魔的*3である。コロナ禍で何事もオンラインで済ませる動きが加速し、エンターテイメント業界や観光業界、飲食業界などはコロナが終息しても客が戻ってこないではないかと心配しているというが、リアルな体験というのはオンラインで代替不可能な価値があると改めて実感した。

 冒頭でも記載し、この記事のタイトルとしても使っている「黙れ小僧!」「お前にサンを救えるか!」というセリフを美輪明宏演じる山犬のモロが言い放った瞬間は比喩などではなくその迫力から本当に体が跳ね上がってしまった。映画館のスピーカーと静寂、大画面があったからこその反応だと思う。

 どんな声のトーンか気になる人は下記のアフレコ動画をご覧いただきたい。ちなみに、僕も友人もスタッフロールでサンの声優が石田ゆり子だと知りいい意味で驚いた。というのも、彼女以外もこの映画では本職の声優ではなく俳優が多く起用されているが、同じくジブリの某青春ストーカー作品のお父さんや某探偵漫画のサッカー選手のような違和感が全くなく、素晴らしい演技だったのだ。参考までにそれらの動画も貼っておく。

 


もののけ姫 アフレコ

https://youtu.be/W7dEzBdKua4


【名探偵コナン】 伝説の遠藤保仁の棒読み 【11人目のストライカー】

 ゲスト声優と主演を任されている声優を比べるのはナンセンスだが、声優が本職ではない人達があそこまでの演技をできることの偉大さは伝わるのではないだろうか?

 昨今、NetflixAmazon PrimeをはじめとしたVODサービスの発達により映画を見る手段は増え、手間や金額などあらゆるコストも低下し"手軽"に映画を見ることができるようになった。一見、これらの流れは映画館にとって厳しい流れのように思われがちだが、僕の場合はVODサービスに加入してから、以前にも増して映画館という映画を見ることだけに特化された、作品に集中できる空間の価値をより感じている。実際に、要因は様々あれど下記記事にあるように日本の映画業界は好調である。

eiga.com

 この記事にも記載されているが、映画館とVODは「共に生きることはできる!」のだと思う。かつて、新聞とテレビは競合すると思われていたが、新聞にあえてテレビ欄(番組表)を載せることにより、かえって新聞の売り上げが増加したという話を聞いたことがある。この例のようにVODと映画館も相乗効果を生み出すことができればウィズコロナ時代の映画業界の未来も明るいのではないだろうか?

 

 本当は、この一記事ですべて書ききるつもりであったが、明日は現代社会のタタラ場での労働があるのでここら辺で切らせていただく。

 

お前に地球を救えるか!~「もののけ姫」を劇場で見て~② につづく

 

*1:ゲド戦記のストーリーは難解すぎて私の頭には理解できなかった

*2:漫画『カイジ』でよく使われている言葉なので使ってみたかった

*3:これも『カイジ』から引用、最上級の褒め言葉

レジ袋有料化を批判する前に政策の意味を考えてみる~環境経済学の観点から~

 はじめに

 7月から日本全国で、レジ袋の有料化が始まった。7月以前に有料化されているスーパーを日常的に利用されていた方々にとってはなんてこともないだろうが、僕の家族のようにレジ袋が無料のスーパーを日常的に使っていた人々にとっては大きな変化であろう。例にもれず、僕の家族もレジ袋の有料化は不満のようだ。

 僕はというと、少年時代から環境問題には関心が強く、これだけ気候変動/地球温暖化をはじめとした環境問題が深刻になっている現代社会では、コロナ禍というタイミングの悪さはあれどレジ袋有料化は自然の流れとして当然のものと思っていた。

 しかし、Twitterなどを眺めていると想像以上に今回のレジ袋有料化が物議を醸しているではないか。しかも、多くリツイートやいいね!がされているものは主に「レジ袋は環境に悪くない!」「環境省は頭が悪い!」「偽善欧米リベラルにはうんざりだ!」といったようなレジ袋有料化反対派のツイートであった。小学生時代グランドでサッカーやドッジボールではなく、昆虫採集をしていたくらい地球と環境を愛してやまない僕としては正直残念な気持ちを抱いた。無邪気故に数多の虫や生き物の命を葬ってしまったこともあったが...

 

 環境問題に関心をもったきっかけなどはまた別の機会に書くとして、レジ袋有料化反対派のツイートを見ると下記のツイートで触れらているような経済学で言うところの"外部不経済の内部化"が世間には理解されていないなという感想を抱いた。

 

 

 メディアに関しても反対派の意見については下記の記事のように多く見かけるが、今回の政策の根拠を説明するような記事は残念ながら僕が調べた限りではほとんど見かけない。なら地球を愛す僕が書いてやろうじゃないかということである。

biz-journal.jp

 

 ちなみに、僕は友人から「お前って批判的だよね」とか会社の研修で講師からは「君の批判力はメンバーのなか一番じゃ!」と言われるほどの批評家()であるのでこういったいわゆる権力者側の肩を持つのは、自分でいうのもなんだが珍しいことだと思う。僕の信条として"批判"をより有意なものにするために何でもかんでも批判するのではなく、良い政策や良い行いは良いと判断できる社会、個人が増えればと思いこういった記事を書くことにした。もちろん僕自身も知識不足やバイアスから間違ったことを書いているかもしれないので、その時はコメントをいただきたい。

 

 また、先に断っておくと僕はいわゆる文系人間で正直、化学などの理系について疎い。なので、下記のツイートにあるようなレジ袋はそもそも環境に悪影響を与えるか与えないかといった議論については本記事で言及しない。あくまで、今回のレジ袋有料化がどのような根拠に基づいた政策かというのを経済学の観点から考えることでこの問題に関して違った見方を提供できればと思う。

 

 "外部不経済"とはなにか

 今回のレジ袋有料化は経済学で言うところの"外部不経済の内部化"ということだろうというのは前述したとおりである。このように専門用語でいえば一言で済む話なのだが、経済学とくに環境経済学をかじったことのない人(多くの人はそうであろう)にとっては意味不明な言葉だと思う。話は逸れるが、某武勇伝芸人のYouTubeのように"わかりやすさ"が持て囃される昨今では、専門用語というものがどこか否定的に扱われているように感じるが、今回のレジ袋有料化の根拠を外部不経済の内部化という一語で説明できるように専門用語というのは偉大なものである。だからこそ一般の人にはわかりづらいのだが....(もちろん僕も専門外の言葉はちんぷんかんぷんである)

 まず、"外部不経済"という用語についてだが、経済学は"市場メカニズム"を非常に重視する学問である。経済学や"市場メカニズム"についての細かい説明はそれだけで長くなってしまうのでここではしないが、簡単に説明しておくと、"市場メカニズム"とはアダム・スミス*1が言った「(神の)見えざる手」が示しているように世の中は"需要"と"供給"でうまくまわるよねといった仕組みのことである。

 しかし、日常生活を送っていれば実感すると思うが、この世の中というのは"市場メカニズム"(≒需要と供給)だけで説明できるほど単純でないし、この仕組みに当てはまらない(市場という仕組みを通さない)ものが多くある。これを経済学の用語で"外部性"と呼ぶ。市場というしくみの外にいるので"外部性"というわけである。

 例えば、予防接種などがあげられる。コロナ禍において話題にもなっているが、予防接種はその費用(コスト)を負担する予防接種を受けた人が病気にかかりづらくなるのはもちろん、その人の周り、社会も病気が蔓延しづらくなるという便益(メリット)をうけることができる。これは、予防接種を受けた人以外は無料(タダ)で病気になりづらいという便益(メリット)をうけたことになる。無料(タダ)なので市場を経由していないことになる。つまりこの現象こそ"外部性"である。この予防接種の例では、無料(タダ)で良いことがおきているので"外部経済"という。今回のレジ袋有料化とは真逆の例である。

 一方、"外部不経済"はというと環境問題の多くがこれに当てはまる。例えば、工場の生産などによる公害が上げられる。工場が生産することによってでた排ガスや排水が近隣の住民の健康を害した例は日本はじめ多くの国が経験してきたことである。(途上国は現在進行形でこの問題に直面している)

 市場メカニズムで言えば近隣の住民の健康を害するといったコストも工場は負担しなければいけないが、できていなかった。市場を経由せずに第三者に被害(デメリット)を与えてしまっている。これこそ"外部不経済"である。

 今回のレジ袋でいうと、下記の記事のようにレジ袋により動物が死んでしまったり、レジ袋の焼却によりCO2などの温室効果ガスが排出されることにより、気候変動が進み、レジ袋を使用も販売もしていない何も関係ない第三者が異常気象などの被害を受けるといったことが考えられる。市場を経由せずに第三者に被害(デメリット)を与えてしまっているので"外部不経済"というわけである。

https://www.buzzfeed.com/jp/ishabassi/guys-this-is-serious-lets-reduce-plastic-bags-1?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharecopy

 では、市場メカニズムでうまくいかない*2からといって経済学がお手上げというわけではない。こういった問題の解決策が"外部不経済の内部化"でありレジ袋有料化というわけだ。

 

レジ袋有料化の根拠"外部不経済の内部化"とは

 市場メカニズムではレジ袋問題がうまくいかないという外部不経済に対しての解決策

"外部不経済の内部化"だが、一言でいうと「市場を経由しない(市場メカニズムでうまくいかない)なら無理やり市場を経由(市場メカニズムでどうにかしてまおう)させてしまおうぜ!」というものである。これを実現することによって、僕たちが、適正な値段でスーパーで買い物ができスーパーも極端な品切れを起こさないといったように環境汚染(レジ袋)までも市場メカニズムの力で適正な度合いに調整されるのである。

 問題は、どのように"外部不経済の内部化"を実現するかということだが、法律で直接的に規制する環境規制、環境を汚染するものに対して税金をかける環境税排出権取引など様々な手法がある。(※環境規制は外部不経済の内部化と言えないため、2021/10/06訂正)

 今回のレジ袋有料化をそういった"外部不経済の内部化"の手法の一つという見方ができるのではないかというのがこの記事で一番伝えたいことだ。環境省のお役人もバカではないだろうからこういった根拠があるはずである。レジ袋を有料化することで、消費者(レジ袋を使う側)に環境汚染のコストを背負わせることができるというわけだ。

 今回のレジ袋有料化のポイントはインドの一部のようにレジ袋を"禁止"しているわけではないという点である。

news.yahoo.co.jp

 

 

  上記のツイートにもあるように、有料でもその価格に見合う価値をレジ袋に感じるなら買えばいいだけの話である。レジ袋を使う自由は残されているのである。逆に言えば、今まで"無料(タダ)"でレジ袋をもらえていたことのほうが不自然であったともいえる。もちろん、レジ袋の価格が妥当かどうかという問題は存在する。これは、外部不経済の内部化につきものの問題で別に議論が必要な点なのでここでは深く述べない。

 

おわりに

 外部不経済の内部化といった視点で見れば今回のレジ袋有料化にも一定の根拠が存在することを理解いただけたであろうか。

 外部不経済の内部化の細かい理論などまでは僕の力不足と気力不足ということから説明することはできなかった。この記事だけでは「レジ袋を使う自由は残されていては環境対策として意味がないのでは?」と疑問に思う方や「経済学(市場メカニズム)なんて机上の空論だ!」という方もいるかもしれない。また、これをきっかけにもっと知りたいという方もいるかもしれない(そういう方がもしいれば記事をかいてそれほど幸せなことはないです。) 、そういった方々には以下の『環境経済学をつかむ』といった本を手にしてもらいたいと思う。大学の学部の教科書などとして使われている環境経済学の入門書であるため、環境問題を社会的な観点から解決したい!知りたい!という方にはおすすめの本である。高校時代数学で赤点をとっていた僕でも理解できる程度にやさしく細かく解説されているので初学者でも理解できるはずだ。

 

環境経済学をつかむ 第3版 (テキストブックス[つかむ])

環境経済学をつかむ 第3版 (テキストブックス[つかむ])

 

  経済学部というとどこの大学にもあり、書店にはその名を冠した本が多く並んでいるが、実際に今回のレジ袋の有料化といった経済学的知見が使われているであろう事象が起きてもメディアをはじめとして経済学の知見から述べる人がほとんどいないことに驚く。僕自身まだまだ勉強途中であり間違いもあるだろうが、何かしらアウトプットすることも必要だと感じ、初めてこういった記事を書いてみた。

 大学時代は卒論の筆(タイピング)が進まずコピペで水増しをするといった情けない学生であったが、論文とは違い自由に好きなことを書けるブログでは卒論と同じ経済学をテーマとした文章でも気づいたら4000字を超えていて自分自身驚いている。好きという気持ちや伝えたいという気持ちはやはり偉大だと痛感した...

 

 

 意見・ご指摘・感想・データ・参考記事・資料などがある方はコメントお願いします。

 

*1:スコットランド出身の経済学・哲学者で経済学の父『国富論』『道徳感情論』などの著者、ウェイ済学部生が大学時代に覚える最初で最後の人名トップ3の一人

*2:これを市場の失敗といったりします

読書感想文と"当たり前"

 

 

はじめに

 読書感想文が物議を醸している。Twitterまだやってるの?今はインスタ、TikTokでしょみたいな健全な生き方をしていて今回の論争を知らない方々は下記のまとめを読んでもらいたい。

https://togetter.com/li/1551124

 

 ことの発端のツイートを僕がTLで最初に見た時はせいぜい数百RTといいね程度しかついていなかったので、Twitter日本トレンド1位になるほど盛り上がるとは思っていたなかったから驚いた。

 そこで、読書感想文について色々思い出したことがあったので書いてみたい。この論争とは少しずれるが、一意見、一経験として受け止めていただきたい。

 

 まず今の僕についてだ、読書は好きか?と聞かれたら間違いなくYESと答えているし、自己紹介の際、趣味として読書と答えることもある。先日はとうとうAmazonKindleリーダーを購入して読書欲が上がっている。(気力と体力と意欲の問題で働き始めてからは以前よりも映像コンテンツの消費比率が上がりほとんど読めていないが…)

ちなみに購入したのはこれ

 

 

 このようなことを書くと、小さい頃からさぞかし読書家だったと思う人もいるだろうが、実際は全くの逆で読書大嫌い人間であった。

 どのくらい読書嫌いであったかというと、小学校の朝読書の時間は、本棚にある本を適当に選んで本を読んでいるフリをして毎朝やり過ごし、読書感想文はあらすじとあとがきをほぼパクって書く、図書室で夏休み用に本を借りないといけない時も友人達の流行に合わせてズッコケ3人組や三国志怪人二十面相を借りるも流行に合わせて選んだだけなので一切読まずに返却(デルトラクエストだけは読んだかなぁ)といった少年時代であった。

 

 ここまでの話しできっと僕は読書感想文不要論者だと思う方もいるだろう。なぜなら読書が嫌いで読書感想文も手抜きだった僕が今では読書が好きな人間になっているのだから読書感想文は少年時代の僕がそうであったように読書嫌いを助長するのかもしれないと。

 しかし、そんな単純な話しではない。だからここそこの記事を書くことにした。

 

読書感想文と僕

 はじめに、立場を明確にするために書いておくと、僕は現状の多くの小中学校で行われているような形、指導(教員の仕事の多さ、能力などからそもそも指導がなかったりもする)での読書感想文は不要だと思う。

 一方で、個人的に読書感想文にはいい思い出が一つあるのでその思い出について書きたい。

 前述した、読書感想文嫌いエピソードは主に小学生時代の話である。中学生になると小学生の頃よりは多少本を読むようになっていた(それでも銀魂の小説版や好きなサッカーチームの監督の自伝などだったが)。語彙力や読解力の低さ、頭の悪さから小学生時代は本を読んでも話が理解できず面白くなかったのだと思う。それらの力、頭が中学生になり多少強化され活字から物語を想像して理解できるようになったのだと思う。そういう意味では、僕のような頭の弱い人は僕のように漫画やアニメで既に絵を知っている小説をはじめに読むと活字から情景を思い浮かべるのが容易になるのでいいかもしれない。

 そして、中学時代のある日、夏休みの宿題で読書感想文が出された。多少本を読めるようになっていた僕は、既に夏休み前に読んだ家にある1冊の本を感想文にした。その本のタイトルは『スタバではグランデを買え』である。

 

 

 この本は当時ベストセラーであったためご存知の人も多いだろうが、簡単にどんな本であるか説明する。

 「なぜコンビニのお茶とスーパーのお茶は同じお茶でも価格が違うのか?」

「なぜ映画のDVDは期間が経つにつれ価格が下がっていくのか?」

「なぜ100円ショップの商品は全て100円にできるのか?」

といった日々の生活で誰もが一度は考えた事があるだろう価格の仕組みについて一般向けに解説してくれている本である。タイトルのスタバではグランデを頼むのが得であることも書かれている。ちなみに僕はこの本を読んでから約10年後にはじめてスタバに行きグランデではなくトールを頼んだ。需要と供給だとか経済学にありがちな難しいグラフや数式は一切出でこない。

 元々新聞やニュース番組は小学生時代からよく読み見ていて社会の動きに興味があり、物の価格などあらゆる世の中のことに疑問を持っていた(今も持っている)僕にとってこの本は非常に面白かった。おそらく知的な面白さを本で感じた初めての瞬間であった。

 この本を読んだことで価格といったものに興味を持ち、経済学や経営学といった学問の存在をぼんやりだが認識した。それが後の経済学部に入学するといった学部選びに繋がったのだ。

 

 そして、この本で読書感想文を書くと今までの読書感想文は嘘であったかのように筆が進むのである。やはり、自分が本当に好きだと感じるなり何か思うことがあるものについての読書感想文なら書くことができるのだ。

 読書感想文というと、小説(物語)か偉人の伝記といったものが"当たり前"だと思われているだろう。僕自身この本で読書感想文を書くまではその"当たり前"に縛られていた結果、読書感想文はもちろん読書まで嫌いになっていた。

 しかし、その"当たり前"から脱却し本当に好きな本の読書感想文を書いたことにより読書感想文が苦でなくなり、国語の先生から「先生もその本を読みたくなるいい感想文だった」と褒めてもらえた。イレギュラーな本のチョイスでも褒めてくれた当時の国語の先生には今も感謝している。

 もし、私が読書感想文の"当たり前"に縛られ続け好きではない小説や伝記(今は両方ともそれなりに好き)について読書感想文を書いていたら、経済学部には入学していなかったかもしれないし、褒められることもなく文章を書くのが嫌いなままだったかもしれない。もちろん今この記事も書いていなかっただろうし、読書も嫌いなまま、今の僕のような書評を自ら書く人間にもならなかっただろう。

 以上のことから、読書感想文に限らず何かしらの宿題や課題に挑む人は"当たり前"に縛られず取り組んでみるのはいいんじゃないかと僕は思う。そうすることで僕のように嫌いなことが好きになることがあるかもしれない。そして、先生などそれら宿題や課題を確認する立場の人にも当時の僕の国語の先生がそうであったように"当たり前"に縛られず評価して欲しいと思う。あなたのその一言が、言われた側の人生に大きく影響する可能性があるのだ。

 Twitterで論争が起きたところで、現実世界がすぐに変わるわけではない。おそらく今年の夏休みも多くの学校で夏休みの宿題の定番として読書感想文が出されるであろう。であれば、僕のこのエピソードが、読書感想文の励みやモチベーションの助けに少しでもなれば幸いだ。

 また、読書感想文論争をしている方々への判断材料の一つになればとも思う。

 

 

 意見や感想、何か共有したい情報などなんでもコメント待ってます。

 

2020/07/03 追記

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 部屋を整理していたら、中学生時代のプリントが出てきた。国語の先生が僕達の学年はどんな本の読書感想文を書いたのかを共有するプリントだ。

 やはり、この資料だけで判断すると僕の"当たり前"は正しかった。フィクション、ノンフィクションの違いはあれど小説が一番多い。(なかには『こちら葛飾区亀有公園前派出所』や『スラムダンク』で感想文を書いている強者がいるが 彼、彼女*1 も"当たり前"から脱却した1人なのかもしれない)

 

 

*1:日本語の"彼"にはもともと性別による区別はなく、英語のHeとSheのように性別に区別をつける西洋の言語が入ってきた際の訳の都合で"彼女"という言葉を作ったという話を聞いたことがあるが、こういった時"彼"一語で両方の性を表せたらなと感じた

難民問題について①(ブログのスタイルに迷ってます)

 今回から、ブログのスタイルを変えてみることにした。80~00年代邦楽に詳しい方ならお気づきであろうが、今までの僕の記事は個人的に好きな80~00年代の邦楽を何か1曲取り上げてその歌詞に半ば強引にその記事のテーマをむりやり重ね合わせるというなんだがよくわからないスタイルをとっていた。

 その結果、書きたいことも内容はふわふわ、その曲を知らない人には伝わらない謎の言い回し、歌詞に絡めるといったガイ先生張りの自分ルールに縛られ言いたいことも言えないこんな世の中じゃという誰得なブログになっていた。(歌が好きなので少しこういったものを挟んでしまうのはご愛敬ということで)

 そこで、今回から試験的ではあるが書きたいテーマを特に形式にこだわらず思うがままに書いてみようと思う。

 

この記事を書こうと思ったきっかけ

 タイトルの本題に入ろう、今回僕が取り上げたいのは難民問題である。

 先日、いつものようにSNSを眺めていたところ、6月20日世界難民の日であり、各々の名民支援団体が募金を求めている投稿を発見し、下記のリンクから総額ながらTポイントを募金した。この記事を読んで少しでも思うものがある人は是非募金していただければと思う。

世界難民の日 | 明日生きるための支援を - Yahoo!ネット募金

 

 そして、僕は思った。「ワイドショーで流れるニュースを見ながら普通に日本で暮らしているだけでは難民問題を身近に感じる(募金先の候補としてあがる)ことは殆どないのではないか」と。ならば、難民問題に限らず何事もインプットで終わっていた僕のほんのわずかな経験と知識と考えをブログという場で発信することで、誰かしらに何かしらの影響を与えることができるのではないかと思いこの記事を書くことにした。

 

難民支援に懐疑的な僕を変えた出来事

 最初に断っておくが、本記事で取り上げる難民問題とは基本的に現在進行形で起こっている、紛争や迫害、政治的理由により難民が中東、アフリカから主にヨーロッパに向かう難民問題のことを指す。

 この難民問題は我々多くの日本人にとって一時的にニュースでは取り上げらていたものの、遠い国の我々には関係のない問題という認識であろう。

 僕はというと、もともと時事問題や社会の動きというのに興味があり、難民問題がニュースになっていた頃は学生で、通っていた学校も国際色が強いといった様々な要因から一般の人よりは強くこの問題に関心を抱いていた。

 このような残酷な現実は改善されて欲しいと関心を抱いていた一方で、パリ同時多発テロ事件*1

をはじめとした欧州各国で実行犯の中に移民・難民の2世や3世が含まれていたテロ事件が相次いだこと、日本社会の保守的な意見を目にして、難民支援というものに懐疑的な気持ちも持っていた。

 そんな時、偶然にも学内で難民支援協会の方による講演会があり、友人と共に出席した。ひねくれた性格の私はNPOといったものや、○○支援といったものに対して夢想家で理想主義の自己満なのではないかといった気持ちをわずかながらもってその講演を聞いていた。

 その講演では、日本の難民認定の制度の厳しさ、行政として対応できる体制になっていないこと、難民と認定されるには難民である証明が必要だが着の身着のまま日本に来た難民の多くは証明できるものなど持ち合わせていないことなど、既知のものから実際に難民支援の現場に立った人ならではの話など様々なことを知ることができた。

 しかし、そのころの私は前述したとおりヨーロッパの現実(あくまでニュースを通した現実)から難民支援、多文化共生といったことに懐疑的な見方が強く、質問でヨーロッパのテロや移民、難民に対する差別を上げ難民移民との共生の難しさについて質問までした。その際、講演者が口にした「理屈ではなく人道的に支援をするのだ」という言葉と、その講演を主催した教授の言った「フランスにも日本にも共生はできるはず」言葉が腹落ちしていなかった。

 後日、僕のゼミの教授と難民問題について簡単に話す機会があり、僕は難民受け入れに関して懐疑的な意見をぶつけてみた。その時の教授の答えが僕の難民受け入れ、問題について懐疑的な僕の考えを大きく変えるものであった。

 その答えは、「日本をはじめとした先進国だって、我々だってもしかしたら難民になるかもしれない。困ったときはお互い様じゃないかな?」というものであった。

 そう、私は無意識のうちに日本は、先進国は、自分は恒常的に難民を"受け入れる"側であると錯覚していたのだ。いつから錯覚していたのであろうか。「不確実性の高い時代」「気候変動・気候難民」「災害難民」「安全保障」といった言葉を聞きながら、自分のいる国は、自分の立場は安全・安心・安定していると思い込んでいたのである。

 中東のここ数十年の混乱だけを見て、常に争いの絶えない土地だと勘違いしている人もいるが、レバノンベイルートはかつて中東のパリと呼ばれるほど美しかったというし、シリアも元々は美しい町であったらしい*2。我々のこの日常もいつ壊れてもおかしくないもろいものなのである。それを忘れて、今起きている現象だけで物事を判断すると誤った認識をしてしまうことに気づかされた。

 "夢想家で理想主義"だったのはこの日常が壊れることはない、自分達は常に難民を受け入れる側だと夢を見ている僕だったのかもしれない。「理屈ではなく人道的に支援をする」というのは一件理屈が通っているようには見えないが、より長く広く柔軟な視点で考えると最も理に適っているのだとその時思った。

 難民問題に関して、この教授の答えで考えが変わってからの出来事に関していくつか書き留めておきたいことがあるが、①という題をうったのでそれはいつか②で書こうと思う。

 

※難民問題についてこんなことが知りたい! 私はこう思う! こんなデータや記事もあるよ!  といったことがあれば遠慮なくコメントいただきたいです。

また、内容以外でもここがよかった、悪かったなんでもコメントお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:2015年11月13日金曜日(現地時間、以下同)にフランス・パリで同時多発的に起きたテロ事件の総称。移民の2世や3世が実行犯にいたことから移民や難民の受け入れについて懐疑的な意見が出るなど議論になった

*2:

私が住んでいた内戦前のシリアは、本当に美しい国だった | ハフポスト

生きてる理由なんてないだけど死にたくもないこうして今日をやり過ごしてる 1

Mr.Childrenの「未来」である。(決してガーリィレコードの高井ではないので注意)

https://m.youtube.com/watch?reload=9&feature=youtu.be&v=YoDq9uPGVoc

このPVはじめ期間限定で多くのコンテンツが無料公開されているのでコンテンツジャーキーの私にとっては消費したいものが多すぎてコロナが流行る前よりも忙しくなっている。

そんな中、コメント欄に「未来というポジティブなタイトルに対し手放しの期待や達観、楽観の歌でないから好き」「未来というワードに崩れていく何かを感じる」といったコメントがあり100万回いいね!を押したい気持ちになった。自分の感情を自分以上にうまく表現している他人の言葉に出会えた時の感動というべきか爽快感というべきかとにかくポジティブな感情であることは間違いない。(友人がつい先日言葉の表現の不完全さについて私と似た考えの記事を書いていた)

 

世間は新型コロナウイルス(Covid-19)の話題でもちきりである。そんな中、家でできることとして周りに文章を書いている友人が増えたことや私自身もインプットだけでなく何かしらアウトプットをしようとここ3年以上考えていたのもありStay Home週間といういい機会なのでブログを再開することにした(その結果前回の記事から2年空いてしまうあたりが私の怠惰さ、行動力の低さ、タイムマネジメント力の低さなどを如実に表している。)。ちなみに某ユーチューバーのツイートからStay Homeは米国でよく使われること、Stay at Homeは英国でよく使われHomeという単語の成り立ちなどを学んだ。語学は苦手だが言葉の成り立ちや、異文化、言語学などは好きなのでいつかその方面の記事も書きたいと思う。

 

話を戻そう、今回の新型コロナにより日常の危うさ尊さを感じた人は私だけではないだろう。普段よりも人々がギスギスしているのはやはり命の危険があるからなのだと思う。当たり前だがやはり人間生きてる理由がなくとも"死にたくない"のだ。

なぜ、再開早々今までのテーマと違って授業終わりの夕食にしてはやや早過ぎてお腹が空ききっていない時間帯に無理矢理友達に連れられて食べる家系ラーメンより重そうなテーマかというと、私がこの数年で学生という身分から日本で言うところの"社会人"になり(人間一生学び続ける学生だと思うけどね)それまでと生活が変わり"未来"や"生きてる理由"について前より考えることが増え、このコロナ禍(最初このワードの意味がわからなかった)で思うことがいくつかあるからだ。また、卒論以来、日頃のゴミのようなツイートを除きまともな文章を書いてこなかったのでそのリバビリの意味もこめて何か適当なテーマがないか探していたという理由もある。

 

今の私はというとはっきりいって思っていたような"未来"に辿り着けてはいないし、話の半分以上が愚痴という非常によろしくない状況である(話聞いてくれたりする人ごめんなさい、ありがとう)。一方、世間が失業だ満員電車で出社だと騒いでいる中、私は現在在宅勤務だし仕事も減っていないのでひとまず経済的な心配もない相対的に恵まれている状態だ。それにもかかわらず私は"生きてる理由なんてないだけど死にたくもないこうして今日をやり過ごしてる"のである。

一言で言えば「働きたくないでござる」なのだがそれでは文章にならないし正確性に欠けるので最近の世間の情勢も含めて掘り下げていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ポカリのCMって名曲だらけよね

ポカリだから名曲になるのか、名曲だからポカリなのか

 

 

あなたが私にくれたものキリンがさかだちしたピアス 節約①

JITTERIN'JINNの『プレゼント』である。

https://youtu.be/NoMqVp871ic

以前テレビ番組『水曜日のダウンタウン』でキリンのさかだちしたピアスやユニオンジャックのランニングなど歌詞に出てくるもの全てを揃える検証をやっていたのを思い出す。興味のある方は是非見て欲しい。

 

『プレゼント』に出てくるほどのプレゼントを買うには「お金」が必要だ。お金が欲しければ働けばいい。しかし、私をはじめとした多くの怠け者達は働く量を増やさずにお金が欲しいと考える。

一応私の専門である経済学的にあえて書くと人々(家計)とはY(所得)という予算制約の中で、効用(満足度)を最大化するために動く。(ここでは借金の事は考えないことにする、なぜなら私は堅実派、クレジットカードのキャッシング機能なんて私の前ではプレステ2のR3L3ボタンくらいの価値しかない)。

普段の予算制約のなかでキリンのさかだちしたピアスや緑色した細い傘くらいなら買えるかもしれないが、白い真珠のネックレスなんてものは予算オーバーだ。となると、私の効用を最大化するにはなんとか白い真珠のネックレスを買えるように支出を抑えるしかない。

そう、「節約」だ。本題はここからなので前置きのフランス生まれのセルロイドや予算制約がうんぬんは無視していただいて構わない。

私はおそらくそんじゃそこらの大学生より倹約家だ、倹約家というと聞こえがいいがようはケチなのだ。そこで、私の倹約家的、いわばケチ思考を綴る。

大切なあの人に嫌われない程度に参考にしていただき、テディーベアーのぬいぐるみをプレゼントしてあげる資金をあなたが作れれば幸いだ。

 

節約メソッド

1.牛丼換算 時給換算

人間というのは経済学が想定する合理的主体からは程遠く、間違った計算や感情で動いてしまう生き物だ。そこで私がよくやっているのは「換算」である。

換算の対象は自分にしっくりくるものであれば、なんでもいいと思うがデフレの我が国日本ではデフレの代名詞であった牛丼を使うといいだろう。

牛丼より安い外食はなかなかない、そうなるとどの飲食店へ行っても、「このハンバーグセットは牛丼1.5杯分だな」となんか損した気持ちになれる。私はこれを洋服にも使用しているのでシャレオツな服屋に行こうものなら牛達の命を犠牲にしてできた牛丼10杯分の価値をシャツ1枚に見出せずに店を後にし、安い服を買うことになるので支出を抑えられる。私が冴えない男なのは安い服のせいではない、センスがないからだと信じているのでお金をかけないと外見がどうのという指摘はナンセンスだ。

もちろん某イタリアン風チェーン店が好きな人であれば牛丼ではなくミラノ風ドリアでも構わない。

話はそれるが、イタリアの都市はミラノ(Milano)なのになぜサッカーチームはACミラノではなくACミランなのか気になって調べたことがある。オーナーだったかなんかがイギリスかアメリカか、とにかく英語圏関係の会社だったか人だったという理由だったと記憶している。気になる人は是非調べていただきたい。知らないということは伸び代があるということだ。EARTHの住人として日本だけでなく世界に関心を持つのはプロフェッショナルに近づく道であろう。

本題へ戻ろう、時給換算も有効である。

ふと、欲しいCDが出てきたとしてもこのアルバムは私の時給5時間分と変換できれば働きたくない怠け者の私には非常にストッパーになる。

この方法、アグレッシブ大学生によく居る労働基準法第32条第2項を超える時間、1日10時間とか長く働いても平気な人間には逆効果だ、CDを5時間のバイトに換算した途端、「このCDは5時間バイト仲間とワイワイ頑張ればいいだけなんだ!」となってしまうからである。忘れないで欲しい、白い真珠のネックレスをプレゼントするためにあなたは出来るだけ支出を抑えなければいけないのだ。その為、あなたが「バイト仲間マジ最高!」とかインスタにあげちゃうようなイケイケ大学生であってもこの方法を使う時は、フランスの労働者もしくは某匿名掲示板のニートのように「働く」という事を忌避する思考になる事が大事だ。働いたら負けなのである。(おフランスの名誉の為に書いておくが別にフランスの労働者がニートと言いたいわけではない。彼らの権利意識を日本の労働者も見習った方がいいと思っているくらいだ)

さらに、労働者は資本家に搾取されている、資本家が儲かるのはあなたの剰余労働があるからだと「聖書」の次に世界の多くの人に呼ばれた某書に書いてあるような思考が作れれば効果は絶大だ。

 

節約メソッド2以降はまた次の機会に書きたいと思う。

 

 

 

 

 

シャガールみたいな青い夜って幾ら貯めれば買えるんですか?